
芸術家


ゴッホは美しい。しかしきれいではない。ピカソは美しい。しかし、決してキレイではない

生きる日のよろこび、悲しみ。一日一日が新しい彩りをもって息づいている

人間の運命は人間の手中にある

僕はいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける

ものがそこにあるという尊厳。これはいったいなんだろう。ただあるというだけなのに

テクニックばかりに気を取られる人たちは全ておいてミスをする

真の芸術家とは、喜びのために仕事をする唯一といってよい人達だ

自分の写真に、ほんのちょっと言葉をつけたいと思っていて…。はじめは簡単だと思って書いていたんですけど、あくる日にそれを見直してみたら、全然ダメで驚いたんです

沈黙は絶叫よりも恐ろしい

愛することは、愛されること

人生は意義ある悲劇だ。それで美しいのだ。生き甲斐がある

ただこの世の中に生まれてきたから、惰性で生きてるなんて、そんなやつは、生きてる必要ない

私の創造の源泉は、私が愛する人々である

芸術家は自然の親友である。草花は茎の優美な曲線と花びらの調和のとれた色合いで芸術と対話をする。どの花にも、自然が芸術家に心から語りかける言葉があるのだ

選択肢とか自由な表現が辛いのは、自分という位置の束縛が出てくるからである。自由による束縛といってもいい。いまの子供たちは、自由な表現というものを強要されて、ずいぶん辛い思いをしているのではないか。表現したいことなんて特になくても、とにかく自由にして見せないといけない。それよりもむしろ固苦しい習いごとを押しつけられて、そのことに抵抗を感じている方がよほどネイティブの自由がふくらんでくる

ダサいんですね。言葉を入れすぎると説明になっちゃって、言葉も写真もつまらないものになってしまうんです

自分が何をやるかさえ確かだったら、少しぐらい待ってもなんでもない

青年は決して安全な株を買ってはならない

術は日々の生活の埃(ほこり)を、魂から洗い流してくれる

僕がしてきたことは、僕たちとって一番いいことなんだ。どうしようもないんだ、僕はこの憂鬱から絶対に逃れられない

眼が見えるということは一生涯もかかる教育の果実です

現在持っているものに満足しない者は、持ちたいと思っているものを手に入れたところで、満足しないだろう

熱帯の夜の静寂の中で、私が私の心からの囁きと柔軟な音楽を聞くことができます

芸術家にとって、自然の中に醜いものなど決して存在しない

楽しくなかったら絵なんか描きませんよ

全然文明化されていない環境と孤独が、死の間際にいたり、私の内部で、最後の熱情のひらめきを復活させるのです。そしてその熱情こそ、私の想像力を、今いちど燃やし、私の才能を、最後の出口へと導いてくれるものなのです

やり方を学ぶ

私は大理石の石塊を選び、必要としないものは何でも切り落とす

何よりも辛いのは、永遠に完成することがないということだ

絵を描き始める前に、すでにそれは私の心の中に形作られている

大金を持った貧しい人のように暮らしたい

愛の前で自分の損得を考えること自体ナンセンスだ。そんな男は女を愛する資格はない

画家は労働者が働くように勉強しなければならない

抽象画なんてものは無い。とりあえず描き始めて、それから現実の痕跡の全てを排除していくのだ

逃げない、はればれと立ち向かう、それが僕のモットーだ

私が独りでいることは決してない。いつだってサルバドール・ダリといるのが習慣なんだ。信じておくれよ、それは永遠のパーティーってことなんだ

老年は騒音から遠ざかる。沈黙と忘却に仕える

何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くもののことである

何か新しいものを作るとき、それを作るのは実に複雑だから、作品はどうしても醜くなってしまうのだ

肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。芸術家である以前に、人間であることだ

絵画というのは手で作った写真だ

大事は寄せ集められた小事によってなされる

我々が描くのは顔の表?中?それとも裏か

少なくとも自然は、生命を更新するためにのみ死を役立てます

優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む

家族同様に暮らしていくうちに、猫はしだいに家庭の中心的存在になってくる

今は、もう感動はない。だから感想が湧くのである。感動には叫びはあるだろうが言葉はない

文明とは、麻痺状態のことだ

コンピューターなんて役に立たない。だって、答を出すだけなんだから

女の美は性格の中にあるのです。情熱の中にあるのです

人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ

釣りをやる人には、釣れそうなところがわかるそうなんですね。私たちの路上観察も同じような感じで、ありそうなところっていうのが、何となく雰囲気でわかるんですね。あまりピカピカの出来たての街だと、他の要素が入り込む要素がないので、妙なものを発見することが少ないんです。だいぶ時間がたって、壊れたり色々用途が変更になったり、何だかんだと生活にもまれたところで、見る人が見れば妙なものになる。そういうところがすごく面白いところなんですね

芸術作品が時代に先駆けてあらわれるとき、時代は芸術作品の後ろでもたもたしている

すべては奇跡だ。例えば、お風呂に入ったとき、あなたがお湯に溶けてしまわないことだって

私は最初、写真っていうのは、機械が撮るもんだから誰が撮っても一緒。だから絵とは違うなって思っていたんですけど、そうじゃないんですね。写真って、あなどれないなと思いました

究極の善、究極の悪、究極の価値がなければ、人間のある活動が別の活動よりも本質的に優っていることなどあり得ない。だから、全ての行為が同じ価値しか持っていないということを認めざるを得ない。とするなら、一つの行為を別の行為よりも優先させるのは、我々が自分で独自の選択を行っているからある

自然には未だ知られていない諸力がある。我々が自分自身の余すことなき全てを自然へ委ねるとき、自然はそれらの力を我々に貸してくれる。我々の眼では見えず、知性でも理解・推測できないその諸力の形相を示してくれる

評価されるなんて一切必要なし!音が好きならば、音になっていないといわれようと「音」を出す。これが前提だな

雨が降るのは聞こえるが、雪が降るのは聞こえない。軽い悩みは大声で叫ぶが、大いなる苦悩は沈黙する

私が死んだら、まるで船が遭難するようなものだな。大きな船が沈むと、その近くにいる人はみな、渦に巻き込まれてしまうんだ

神を知る最善の方法は、多くの物を愛することだ

結局芸術の唯一の原則は、見るものを模写することだ

人間が生きている社会基盤は、一瞬なりとも安定することなく、さまざまな変動によってつねに変化する

色彩は、それ自体が何かを表現している

人間が生きる限り、死人も生きているんだ

偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ

傑作なのか屑なのかわからない

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる

画家とは売れるものを描く人のことで、アーティストとは描くものが売れる人のことをいう

努力というのは、恐らく運や偶然を追いつめて縮めて微細なものにしていって、自分で掴まえやすくするためのものではないのかと思うのである

僕はずっと一人ぼっちでいるせいか、人と話すと自分のことばかり話してしまう

たとえこの人生が負け戦であろうと、いずれにせよ僕は「良い戦い」をしたい

たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ

何も真似したくないと思う者は、何も生み出さない

本物の画家というのは何もない砂漠で異常なシーンを描ける人だ

眠い人が眠るように、瀕死の人は死を必要としているのです。抵抗が間違いで無駄だというときが、いずれきますよ

女には、生まれつき筋をつらぬく面がある。男よりずっとしっかりしているよ

人は、まず当たり前の作品に対してでも、ある程度は尊重して、それも少しは何かを表していることを認めなければいけない。そして、大いに努力しなければ、その程度にすら到達できない

痛みはいつか消えるが、美は永遠に残る

大胆のコツは、度が過ぎない程度にどこまで遠くへ行けるかを知ることである

僕は口が裂けても、諦めるなどとは言わない

女が何を考えているのか、すっかりわかれば、男は何千倍も大胆になるだろう

この世は偶然に満ちている。だから人間は人工管理の街を造った。でも、街はいづれ老朽化し、その隙間から、追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。カメラにはそれが美味しい

私は子供のときに自転車に乗ったことのない唯一の男である。描くことにしか興味がなかった

人間と人間との間柄には、愛よりほかの財産はない

絵の玄人なんていうものは、絵描きに対してロクなアドバイスをしない

やっぱりその時(写真を撮った時)に「良い」と気が付くのは感覚というか、その時の感受性ですからね。それがないとゴミはゴミのままなんですね。実際にゴミだったのかも知れないし、わからないですよね。写真は固定されたものではないっていうのを実感しますね

多くの人が80代まで生きれないのは、彼らが長期に渡って40代で止まろうと努力するからだ

予感というのも、努力の重なりの上に出来る、透明な上澄みのような感覚だと思う

いかなる革命も、3日目から堕落が始まる

むしろ「成功は失敗のもと」と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言いあてている

芸術家とは、不滅の存在である。刑務所や強制収容所に入れられていても、芸術の世界に身を沈めていれば、私は全能でいられる。たとえ、ほこりまみれの牢屋で濡れた舌を使って絵を描かねばならぬとしても

美術館はちょっとまとまり過ぎてる感じで、博物館的な世界には思わぬものがあるんだよね

運命は、むしろ降ってきたものを遊んだ方がいいのだろう。自分で選ぶとなれば運命として遊べないが、上から下りてくる運命は、むしろそれ自体を遊べる。自決できる世界は考えたら自分の範囲の狭いものだが、突然やってくる他からの運命の世界は自分よりも広い。どうも運命を遊ぶ気持ちが、他力思想の自在さに繋がっていくような気がする

例えを言って、それが即、通じるというのは、お互いに共通するものをもっているということ

私は何も発明したりしない。ただ、再発見するだけだ

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ

人は、若くても年をとっても、絶えず成長したり変化したりしていますよね。固定したものはないんですね。だから、今、面白くないものは、あえて見ることもないなっていう気もします
