
芸術家


侮辱に悪影響を受けるのは、侮辱に感染しているのだ

手慣れたものには飛躍がない。常に猛烈なシロウトとして、危険をおかし、直感に賭けてこそ、ひらめきが生まれるのだ

絵を描き始める前に、すでにそれは私の心の中に形作られている

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ

人は生涯、同一水準の作品しか書けない

運命というのもひょっとしてウィルスみたいなものではないだろうか。それ自体では何事も起きないけど、他の実力をもったサルモネラ菌や、あるいは紙幣や、恋文や、試験の答案用紙や、いろんな物につくことで、それを動かす。でもそれ自体は姿も形もなくて、見ることができない

犬や猫は偶然など当たり前のこととして、偶然の海をゆったりと泳いでいるのではないだろうか

盗作は情けない

人は、若くても年をとっても、絶えず成長したり変化したりしていますよね。固定したものはないんですね。だから、今、面白くないものは、あえて見ることもないなっていう気もします

画家は労働者が働くように勉強しなければならない

ものがそこにあるという尊厳。これはいったいなんだろう。ただあるというだけなのに

人生の目的は悟ることではありません。生きるんです

親からもらった立派な体、というけど、じつは親からもらっているのは運の方かもしれない。運が脊髄のように芯としてあって、人間の人生というのはその運命の芯の回りにまつわる蛋白質、あるいは脂肪質、悪くいうと贅肉みたいなものなのだろうか

彫刻に独創はいらない。生命がいる

自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突きあたる

その人がいい趣味をしてるかどうかを見極めるのは簡単だ。絨毯と眉毛がマッチしているかだ

風景なら その中を散歩したくなるような、女性なら その人を抱きしめたくなるような、そんな絵を私は描きたい

予感というのも、努力の重なりの上に出来る、透明な上澄みのような感覚だと思う

デッサンと色彩とは区別することはできぬもので、彩色をほどこすにつれてデッサンがなり、色彩が調和していくにつれてデッサンは正確になる。色彩が豊富になる時、形も充実する

真理に年齢はない

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ

悪趣味とはクリエイティブなもので、生物学を知識で操るようなもの

自分が何をやりたいか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる

見るために、私は目を閉じる

評価されるなんて一切必要なし!音が好きならば、音になっていないといわれようと「音」を出す。これが前提だな

人の本当の仕事は30歳になってから始まる

(カメラは)カビたり錆びたりもしますから、送られてきたお菓子とかに入っているシリカゲルを棚に入れたりしています。まあ、普通に置いてます

何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くもののことである

宇宙には緊急な、致命的な、動かせない法則がある。なければならぬ

自由であるとは、自由であるべく呪われていることである

人間は毅然として、現実の運命に耐えていくべきだ

癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた

たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ

時間は私たちに残された数少ない大切なものだ

壁は自分自身だ

あのアナウンス(「ファウルボールにはご注意下さい」)であらためて注意する間抜けはいない。でもあのようにいっておかないと、後で怪我して訴えられたら困るというのがある。アメリカ仕込みの訴訟社会の風習である

家の仕事をしている女性は、この世でもっとも美しい

思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ

「志」のない知恵は、翼のない鳥に等しい

電子辞書は確かに早く正確に引けるが遊びがない。紙の辞書は、引いた語句の両脇の語句が視界に入る。この種のノイズが文化を生む

自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手の中に自分自身を発見する。それが運命的な出会いというものだ

アバウトは健康にいい

着物を脱ぐ女性の美しさは、雲を貫く太陽のようだ

詩人は常に真実を語る嘘つきである

忍耐もまた行動の一つの形態だ

かぶりついて仕事せよ

同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ

あなたには安らぎがある。贅沢さはない。お金が一端を握っているなんて言わないでくれ。私が提案している贅沢には、金はまったく関係ない

頭のおかしい人と私の唯一の違いは私は頭がおかしくないということ

批評家は常に比較する。比較できないもの、つまり「類まれなもの」はそこからすり抜ける

全然文明化されていない環境と孤独が、死の間際にいたり、私の内部で、最後の熱情のひらめきを復活させるのです。そしてその熱情こそ、私の想像力を、今いちど燃やし、私の才能を、最後の出口へと導いてくれるものなのです

「絵になる風景」を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい

今は、もう感動はない。だから感想が湧くのである。感動には叫びはあるだろうが言葉はない

私は絵を描く夢を見、そして私の夢を描く

たとえこの人生が負け戦であろうと、いずれにせよ僕は「良い戦い」をしたい

芸術愛は真の愛情を失わせる

我々は自分たちを巡る奥深い知られざる者の真ん中にいて、絶えず昏迷する

創造の最大の敵は「良い」センスだ

夫婦とは二つの半分になるのではなく、一つの全体になる事だ

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる

赤がなければ、青を使います

本物の画家というのは歴史の騒乱に囲まれながらも洋ナシを根気強く描ける人だ

青年は決して安全な株を買ってはならない

99回倒されても、100回目に立ち上がればよい

私は仕事をしているとくつろげる。何もしていなかったり、訪問客の相手をしていたりすると疲れる

人生とは自らの道である。一つのことを試みることであり、一つの道を端的に示すことである

何と嫌な商売だ

なんでもいいから、まずやってみる

天才?そんなものは決してない。ただ勉強である。方法である。不断に計画しているということだ

逃げない、はればれと立ち向かう、それが僕のモットーだ

私は子供のときに自転車に乗ったことのない唯一の男である。描くことにしか興味がなかった

芸術に従って芸術を作ってはならぬ

神童。それは多くの場合、非常に想像力の豊かな親を持った子供のことである

愛は人生において、最も優れた栄養源である

若さと年齢は無関係

すべてはむなしい

色彩は、それ自体が何かを表現している

スタイルとは、複雑なことを表現するための簡単な方法だ

壊れたギリシアの彫刻は、多くの傑作に分かたれた傑作です

自分が何をやるかさえ確かだったら、少しぐらい待ってもなんでもない

与えようとばかりして、貰おうとしなかった。なんと愚かな、間違った、誇張された、高慢な、短気な恋愛ではなかったか。ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては

日本人が何をするにも明確であることが、私にはうらやましい

究極の善、究極の悪、究極の価値がなければ、人間のある活動が別の活動よりも本質的に優っていることなどあり得ない。だから、全ての行為が同じ価値しか持っていないということを認めざるを得ない。とするなら、一つの行為を別の行為よりも優先させるのは、我々が自分で独自の選択を行っているからある

芸術作品が時代に先駆けてあらわれるとき、時代は芸術作品の後ろでもたもたしている

芸術において不道徳は存在しない。芸術はつねに神聖である

運が続くというのは、じつはどこかで運のウィルスに感染して、症状が広がっている、という状態なのではないだろうか

すべては奇跡だ。例えば、お風呂に入ったとき、あなたがお湯に溶けてしまわないことだって

挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない

想像できることは、すべて現実なのだ

大切なことは、熱狂的状況をつくり出すことだ

自分の中にどうしても譲れないものがある。それを守ろうとするから弱くなる。そんなもの、ぶち壊してしまえ!

君はあなた自身を創造していると思いなさい

世の中の物事には似たようなものが満ちあふれているわけで、手探りでいく文章とはその似たようなものを飛び石伝いに踏んで渡って行くようなことである。似たようなものをいくつも乗り換えて渡って行くうちに、探しているものの形に次第に近づいていく

本物の涙は、悲しい一ページからではなく、見事に置かれた言葉の奇跡から引き出される

『自分の謎』で言っているような、自分への不思議な感覚というのはみんなもっているはずだけど、ほかの遊びに忙しくなって、どんどん忘れていっちゃう。でもその感覚ってどこかには残ってるんですね

苦しい時には、自分よりもっと不幸な男がいたことを考えよ

他の人間はなぜそうなったかを問う。私はいつも何ができるのか、なぜできないのかを問う

絵を描くのは人生に耐えるための手段だ
