
芸術家


直観力と想像力を、抑え込んではならない

見ることと感ずることを知る者は、至る所に常に賛美すべきものを見出すだろう

多くの人が80代まで生きれないのは、彼らが長期に渡って40代で止まろうと努力するからだ

生き方の基準は、正しいか正しくないかではなく、美しいか否かである

芸術において不道徳は存在しない。芸術はつねに神聖である

いかなる革命も、3日目から堕落が始まる

彫刻は、凹凸の術である

本物の涙は、悲しい一ページからではなく、見事に置かれた言葉の奇跡から引き出される

自分を実際そうである以上に見たがったり、また見せようとしたり、あるいは逆に、実力以下に感じて卑屈になってみたり、また自己防衛本能から安全なカラの中にはいって身を守るために、わざと自分を低く見せようとすること、そこから堕落していくんだよ

たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ

でたらめをやってごらん。口先では簡単にでたらめなら、と言うけれども、いざでたらめをやろうとすると、それができない

人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか

画家は労働者が働くように勉強しなければならない

自分にとっていちばん面白いのは、思いもしないものに出会うことだ。自分の思いを超えたものにめぐり合うことである。何故それが面白いかといえば、そのことで自分が広がっていく快感があるからである

その人がいい趣味をしてるかどうかを見極めるのは簡単だ。絨毯と眉毛がマッチしているかだ

痛みはいつか消えるが、美は永遠に残る

手には、物を掴む手と放す手がある

色彩は、それ自体が何かを表現している

何と嫌な商売だ

自分の中に炎を持ち、魂を抱えているのに、どうして、閉じ込めておくことが出来ようか

神を知る最善の方法は、多くの物を愛することだ

自分の好きな音を勝手に出す、出したい音を出したらいい

私はドラッグをしない。私自身がドラッグだ

アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う

逃げない、はればれと立ち向かう、それが僕のモットーだ

間違いは神聖なもの、それを正すというよりは合理的に考え、誤りを理解せよ。そうすれば間違いを昇華することが可能になる

自然は常に完全である。決してまちがわない。まちがいは我々の立脚点、視点の方にある

自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ

深く、恐ろしく真実を語る者であれ

人間と人間との間柄には、愛よりほかの財産はない

ノスタルジアに屈してはならない。道に出て、隣町や外国に行くんだ。ただ、痛々しい過去を旅していけない

私は天才になるし、世界は私を称賛するだろう。評価されないかもしれないし、理解されないかもしれない。しかし天才になる、偉大な天才にね。なぜなら私はそのことを確信しているからさ

大事は寄せ集められた小事によってなされる

美はあらゆるところにある。我々の眼がそれを認めえないだけだ

自由であるとは、自由であるべく呪われていることである

もし、黄色と橙色がなければ青色もない

あのアナウンス(「ファウルボールにはご注意下さい」)であらためて注意する間抜けはいない。でもあのようにいっておかないと、後で怪我して訴えられたら困るというのがある。アメリカ仕込みの訴訟社会の風習である

子どもは誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ

僕はずっと一人ぼっちでいるせいか、人と話すと自分のことばかり話してしまう

友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる

若いとき旅をしなければ、老いてからの物語がない

愛することは、愛されること

誰にも何の役にも立たないではないか。絵、展覧会──それがいったい何になる

挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない

予感というのも、努力の重なりの上に出来る、透明な上澄みのような感覚だと思う

自分の思い通りにしかできないことは、自分の思いだけに閉じ込められるということになる。自分の思い通りが突っ走った結果は、自分が自分の壁の中に閉じ込められて、外気は遮断されて、そのままでは一酸化炭素中毒となってしまう

時間は私たちに残された数少ない大切なものだ

ようやく何かわかりかけてきたような気がする。私はまだ、進歩している

「それにしてもあの絵は全然彼女に似ていないな」なに、彼女の方でだんだん絵に似てくるさ

創造性の最大の敵は良きセンスだ

自然には未だ知られていない諸力がある。我々が自分自身の余すことなき全てを自然へ委ねるとき、自然はそれらの力を我々に貸してくれる。我々の眼では見えず、知性でも理解・推測できないその諸力の形相を示してくれる

やっぱりその時(写真を撮った時)に「良い」と気が付くのは感覚というか、その時の感受性ですからね。それがないとゴミはゴミのままなんですね。実際にゴミだったのかも知れないし、わからないですよね。写真は固定されたものではないっていうのを実感しますね

近代的になるなんて努力しなくていい。悲惨なことになにをやろうと、唯一避けられないのがことがそれだから

自分の打ったボールがどこへ飛ぼうがかまわない。スカッと飛びさえすれば、いい気持ちなんだ

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ

肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。芸術家である以前に、人間であることだ

明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけ

絶対に言えるのは、時間が経つとワインと同じで良くなるんです。少々の時間じゃだめだけどね、100年後とかね。何でもない写真でも100年経ったらすごく良く感じるんですよ

「絵になる風景」を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい

私は子供のときに自転車に乗ったことのない唯一の男である。描くことにしか興味がなかった

何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう

親からもらった立派な体、というけど、じつは親からもらっているのは運の方かもしれない。運が脊髄のように芯としてあって、人間の人生というのはその運命の芯の回りにまつわる蛋白質、あるいは脂肪質、悪くいうと贅肉みたいなものなのだろうか

真理に年齢はない

イエスとノーのあいだに真実が息づいている

そもそも老人力とは、転んでもただでは起きない力のことである。というか、そもそも老人とは、人が間断なくゆっくりと転んでいく状態のことなのである。気がつけば少しずつ転んでいくのは人生の常。例外はない。時期のずれや度合いの違いはあるにしても、人類の全員がゆるゆると、やんわりと、気がつけば転んでいる状態なのだ

行動がすべての成功の鍵だ

人間と人間社会の問題なのかもしれない。つまり偶然というのは、本当はこの世の中を無数に満たしている事柄なのかもしれない。世の中はむしろ無限の偶然で成り立っている

私は大理石の石塊を選び、必要としないものは何でも切り落とす

低級な芸術家たちは、常に他人の眼鏡をかける

与えようとばかりして、貰おうとしなかった。なんと愚かな、間違った、誇張された、高慢な、短気な恋愛ではなかったか。ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては

批評家は常に比較する。比較できないもの、つまり「類まれなもの」はそこからすり抜ける

被写体に最初に出会った時の写真が一番良いんですね。うまく撮ろうとたくらんだ写真は、素直な力がなくなる

虫だって光の好きなのと嫌いなのと二通りあるんだ!人間だって同じだよ、皆が皆明るいなんて不自然さ!

頭のおかしい人と私の唯一の違いは私は頭がおかしくないということ

少なくとも自然は、生命を更新するためにのみ死を役立てます

私は仕事をしているとくつろげる。何もしていなかったり、訪問客の相手をしていたりすると疲れる

スタイルとは、複雑なことを表現するための簡単な方法だ

我々は自分たちを巡る奥深い知られざる者の真ん中にいて、絶えず昏迷する

コレラや尿石や結核や癌は、天上へ行く交通機関

私は大金を持った、貧乏人のように暮らしたい

文学の偉大なる傑作とは、使えない辞書のようなものである

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように

美術館はちょっとまとまり過ぎてる感じで、博物館的な世界には思わぬものがあるんだよね

何びとも信用しない者は、己れ自身が信用されていないことを知っている

テクニックばかりに気を取られる人たちは全ておいてミスをする

術は日々の生活の埃(ほこり)を、魂から洗い流してくれる

作家だとか、法律家だとか、政治家だとかをやってる女っていうのは、怪物だと思うね

芸術家とは自分のやっていることに喜びを覚える人のこと。だから、すべての職業に芸術家がいるのが望ましいのだ

あなたの家庭はあなたの避難所だ。ただ、そこに閉じこもってはいけない

愛をうまく告白しようとか、自分の気持ちを言葉で訴えようなんて、構える必要はない。きみの体全体が愛の告白なのだ

みんな神話が好きだ。だから私の絵を愛するのだ

いいんだ。岡本太郎の責任でやるんだから

眼が見えるということは一生涯もかかる教育の果実です

私の健康を祝して乾杯してくれ

人生には不愉快な事柄が多い。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない

私は今、生きようと努めている。というよりも、どのように生きるかを、私の中の死に教えようとしている

猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めていく以外にない

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難な方の道を選んできた
