
芸術家


人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう

あのアナウンス(「ファウルボールにはご注意下さい」)であらためて注意する間抜けはいない。でもあのようにいっておかないと、後で怪我して訴えられたら困るというのがある。アメリカ仕込みの訴訟社会の風習である

スタイルとは、複雑なことを表現するための簡単な方法だ

芸術において不道徳は存在しない。芸術はつねに神聖である

人間は毅然として、現実の運命に耐えていくべきだ

今回この写真文庫(岩波写真文庫)を一冊ずつ選んで、いまの世から眺めていきながら、時代の空気というものをつくづく感じた。活字、つまり言葉では説明しきれないことが、写真からはぷんぷん匂ってくる。このシリーズは、戦後の空気の貴重な貯蔵庫だ。いまの肥満ぎみの世の中は、じつはこの空気を吸うことからはじまっている。良くも悪くも、この空気がいまの日本人の両親なのだ

詩人にとって最大の悲劇は、誤解によって賞嘆されることだ

深く、恐ろしく真実を語る者であれ

美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ

自分の思い通りにしかできないことは、自分の思いだけに閉じ込められるということになる。自分の思い通りが突っ走った結果は、自分が自分の壁の中に閉じ込められて、外気は遮断されて、そのままでは一酸化炭素中毒となってしまう

癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた

老年は騒音から遠ざかる。沈黙と忘却に仕える

僕の人生はそれほど長くないだろう。だから僕は一つのことしか目に入らない無知な人となって仕事をするつもりだ。ここ数年のうちに何がしかの仕事をやり遂げてみせる

いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ

女が何を考えているのか、すっかりわかれば、男は何千倍も大胆になるだろう

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように

モネは、ひとえに眼にほかならない。しかし、何という眼だろう

若くなるには時間がかかる

自然には未だ知られていない諸力がある。我々が自分自身の余すことなき全てを自然へ委ねるとき、自然はそれらの力を我々に貸してくれる。我々の眼では見えず、知性でも理解・推測できないその諸力の形相を示してくれる

何びとも信用しない者は、己れ自身が信用されていないことを知っている

何よりも辛いのは、永遠に完成することがないということだ

私が生きているのは国王のため、スペインのため、カタロニアのためだ。天才は決して死なない。人類の進化は我々の手中にある。国王、万歳!スペイン、万歳!カタロニア万歳!

普通の大人なら、球場はボールが飛んでくるから人にいわれなくても自分で注意する。それができないのは五歳か六歳で、つまりそれがいまの日本人の精神年齢ということだろう

自然は至上の建築物である。自然の一切は最も美しい釣り合いをもって建てられている

リンゴひとつでパリを征服する

何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう

冒険こそが、わたしの存在理由である

いかなる創造的活動も、はじめは破壊的活動だ

自分が何をやるかさえ確かだったら、少しぐらい待ってもなんでもない

誰にも何の役にも立たないではないか。絵、展覧会──それがいったい何になる

なんでもいいから、まずやってみる

日本人はやはり全員が五、六歳か、もしくはたんなる訴訟の素材なのだ

自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです

自分の好きな音を勝手に出す、出したい音を出したらいい

逃げない、はればれと立ち向かう、それが僕のモットーだ

僕は流れるって感じが好きなんだ。固定したものは全然つまらない。人生だってそうだろう?いつも流動的で、何が起こるかわからない。だから面白いんだ

過去とは、所有者の贅沢だ。過去を整頓しておくには一軒の家を持つことが必要だ。私は自分の体しか持たない

悪魔は悪しか行なうことができないゆえに純粋である

眼前のものに深く入ること。そしてできうる限り論理的な自己表現を、忍耐強く行うことです

見ることと感ずることを知る者は、至る所に常に賛美すべきものを見出すだろう

人間は精神が拡がる時と、閉じこもる時が必ずある。強烈に閉じこもりがちな人ほど逆に広がる時がくる

人間と人間社会の問題なのかもしれない。つまり偶然というのは、本当はこの世の中を無数に満たしている事柄なのかもしれない。世の中はむしろ無限の偶然で成り立っている

運命は人がその糸をもつれさせるのを好まない

『自分の謎』で言っているような、自分への不思議な感覚というのはみんなもっているはずだけど、ほかの遊びに忙しくなって、どんどん忘れていっちゃう。でもその感覚ってどこかには残ってるんですね

彫刻は、凹凸の術である

大体、いちばん素晴らしい絵を描くのは四、五才くらいの子どもだよ

大胆のコツは、度が過ぎない程度にどこまで遠くへ行けるかを知ることである

ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる

インスピレーションは常に存在する。見つけに行くんだ

女の美は性格の中にあるのです。情熱の中にあるのです

人間が生きる限り、死人も生きているんだ

文明とは、麻痺状態のことだ

芸術は、われわれに自然が永遠であることを味わわせなければならない

全然文明化されていない環境と孤独が、死の間際にいたり、私の内部で、最後の熱情のひらめきを復活させるのです。そしてその熱情こそ、私の想像力を、今いちど燃やし、私の才能を、最後の出口へと導いてくれるものなのです

芸術というものは自然の研究に過ぎません。自然です。何もかもそこにあります

線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない

愛しあう前と後では、火の消えたランプと火のともったランプほどの違いがある

詩はなくてはならないものだ。ただそれが何のためにあるのかを知ってさえいればなあ

眠い人が眠るように、瀕死の人は死を必要としているのです。抵抗が間違いで無駄だというときが、いずれきますよ

大切なことは混沌を拡大することだ。混沌を消し去ってはいけない

努力というのは、恐らく運や偶然を追いつめて縮めて微細なものにしていって、自分で掴まえやすくするためのものではないのかと思うのである

私は何も発明したりしない。ただ、再発見するだけだ

カメラっていうのは難しいんですね。湿気が一番良くないんだけど、乾燥しすぎても良くないらしい。湿度調整する装置がありますけど、あれで安心しても良くないらしいとか。やっぱり、使っているのが一番良くて、しまい込むのが一番良くないんですね。人間と同じなんですね。人間だって引きこもってばかりじゃよくないしね

ナマ身で運命と対決して歓喜する。それがほんとうの生命感

本物の画家というのは何もない砂漠で異常なシーンを描ける人だ

絵を描くのは人生に耐えるための手段だ

詩人は賞賛など求めてはいない。信じてもらいたいだけだ

天才になるには天才のふりをすればいい

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ

忍耐もまた行動の一つの形態だ

考えれば考えるほど、人を愛すること以上に芸術的なものはないということに気づく

人生は、水平方向に落ちていくことである

運を信じるしかない。そうでなければ、気にくわない人たちの成功をどう説明すればいいのだ

経験を賢く活かすならば、何事も時間の無駄にはならない

デッサンと色彩とは区別することはできぬもので、彩色をほどこすにつれてデッサンがなり、色彩が調和していくにつれてデッサンは正確になる。色彩が豊富になる時、形も充実する

すべては奇跡だ。例えば、お風呂に入ったとき、あなたがお湯に溶けてしまわないことだって

肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。芸術家である以前に、人間であることだ

苦しい時には、自分よりもっと不幸な男がいたことを考えよ

若いとき旅をしなければ、老いてからの物語がない

(カメラは)カビたり錆びたりもしますから、送られてきたお菓子とかに入っているシリカゲルを棚に入れたりしています。まあ、普通に置いてます

人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ

秘訣というものはない。ただ正しさの法則があるばかりだ

私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ

我々は決して悪を選ぶことが出来ない。我々が選ぶのは常に善である

この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ

とりあえず放送した方がいいというので、日本の世の中には形式だけのアナウンスがわんさと流れている。日本人は形式が好きだ、と思われても仕方のないことだ

絵を描き始める前に、すでにそれは私の心の中に形作られている

予感というのも、努力の重なりの上に出来る、透明な上澄みのような感覚だと思う

この世は偶然に満ちている。だから人間は人工管理の街を造った。でも、街はいづれ老朽化し、その隙間から、追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。カメラにはそれが美味しい

自分の写真に、ほんのちょっと言葉をつけたいと思っていて…。はじめは簡単だと思って書いていたんですけど、あくる日にそれを見直してみたら、全然ダメで驚いたんです

人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ

ものがそこにあるという尊厳。これはいったいなんだろう。ただあるというだけなのに

私にとっては、この外気の中での美しい研究がありがたい。私の部屋は私を苦しめる。小さすぎ手足を痛める靴のようだ。そして都会・・ 美しい都会、幾度も言わねばならないが、私が自分を知る一切のものを学び得たのは野原や森の外気の中でのことである

自由であるとは、自由であるべく呪われていることである

(作品をどのように見て欲しいですか?)ものの見方の色んな角度を感じてもらえたらいいですね

運命は、むしろ降ってきたものを遊んだ方がいいのだろう。自分で選ぶとなれば運命として遊べないが、上から下りてくる運命は、むしろそれ自体を遊べる。自決できる世界は考えたら自分の範囲の狭いものだが、突然やってくる他からの運命の世界は自分よりも広い。どうも運命を遊ぶ気持ちが、他力思想の自在さに繋がっていくような気がする

テクニックばかりに気を取られる人たちは全ておいてミスをする

美術館はちょっとまとまり過ぎてる感じで、博物館的な世界には思わぬものがあるんだよね
