
芸術家


自分が何をやりたいか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる

同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ

人の本当の仕事は30歳になってから始まる

もし婦人の乳ぶさと尻がなかったら、私は絵を描かなかったかもしれない

何よりも辛いのは、永遠に完成することがないということだ

情熱をもって君たちの使命を愛せよ。これより美しいことはない

ユーモアを失わないように戦うのだ。ユーモアの欠如は愚の骨頂だ

このまま行けと、僕の中の僕が命じるんだ

芸術は、意識と無意識の融合である

犬や猫は偶然など当たり前のこととして、偶然の海をゆったりと泳いでいるのではないだろうか

思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ

美はあらゆるところにある。我々の眼がそれを認めえないだけだ

人の本当の仕事は30歳になってから始まる

若いとき旅をしなければ、老いてからの物語がない

私たちは気が付かないものが道端に隠れているという感覚にわくわくしちゃって、それを写真で記録することになるんですが…。トマソンが一番わかりやすい例です

(印象派について)彼らはもっぱらその装飾の結果のために、真実を妨害するように、自由なしで、色を使っています。彼らは目だけで物を見て、神秘的な思念を基にしていません。彼らは単に明日の公式画家です

人生で起こりうる悪いことは二つしかない。パブロ・ピカソになることか、サルバドール・ダリになれないこと

カニバリズムは最も明確な優しさの表現のひとつだ

癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた

ふつうは歳をとったとかモーロクしたとかあいつもだいぶボケたとかいうんだけどそういう言葉の代わりに「あいつもかなり老人力がついてきたな」という風に言うのである。そうすると何だか歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい

コレラや尿石や結核や癌は、天上へ行く交通機関

とどのつまり歴史とは何か?歴史とは伝説と化した事実であり、伝説とは歴史と化したウソである

ただこの世の中に生まれてきたから、惰性で生きてるなんて、そんなやつは、生きてる必要ない

侮辱に悪影響を受けるのは、侮辱に感染しているのだ

誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか

絶対に言えるのは、時間が経つとワインと同じで良くなるんです。少々の時間じゃだめだけどね、100年後とかね。何でもない写真でも100年経ったらすごく良く感じるんですよ

文学の偉大なる傑作とは、使えない辞書のようなものである

この世は偶然に満ちている。だから人間は人工管理の街を造った。でも、街はいづれ老朽化し、その隙間から、追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。カメラにはそれが美味しい

最も美しい主題は君たちの前にある。なぜといえばそれらのものこそ君たちが一番よく知っているからである

人生は意義ある悲劇だ。それで美しいのだ。生き甲斐がある

いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ

芸術家は自然の親友である。草花は茎の優美な曲線と花びらの調和のとれた色合いで芸術と対話をする。どの花にも、自然が芸術家に心から語りかける言葉があるのだ

私が生きているのは国王のため、スペインのため、カタロニアのためだ。天才は決して死なない。人類の進化は我々の手中にある。国王、万歳!スペイン、万歳!カタロニア万歳!

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように

人間の運命は人間の手中にある

あなたには安らぎがある。贅沢さはない。お金が一端を握っているなんて言わないでくれ。私が提案している贅沢には、金はまったく関係ない

自分の打ったボールがどこへ飛ぼうがかまわない。スカッと飛びさえすれば、いい気持ちなんだ

芸術は悲しみと苦しみから生まれる

自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手の中に自分自身を発見する。それが運命的な出会いというものだ

手には、物を掴む手と放す手がある

まっさらな目をもて!そして目的を捨てろ!

ミスというのはほとんどいつも神聖な特徴があって、決して修正しようとなんてしてはいけない

アクシデントが起きると、人はそれを変えようとするが、人には変えることが出来ない。アクシデントが人の内面を明らかにするだけだ

あなたの中に、あなたの知らない芸術家がいる。彼は月夜に物事がどの様に違って見えるか興味がないのだ

普通の大人なら、球場はボールが飛んでくるから人にいわれなくても自分で注意する。それができないのは五歳か六歳で、つまりそれがいまの日本人の精神年齢ということだろう
