
芸術家


例えを言って、それが即、通じるというのは、お互いに共通するものをもっているということ

忍耐もまた行動の一つの形態だ

ダサいんですね。言葉を入れすぎると説明になっちゃって、言葉も写真もつまらないものになってしまうんです

リンゴひとつでパリを征服する

深く、恐ろしく真実を語る者であれ

美術館はちょっとまとまり過ぎてる感じで、博物館的な世界には思わぬものがあるんだよね

素描を通してのみわれわれは陰影の知識に到達する

赤がなければ、青を使います

僕は流れるって感じが好きなんだ。固定したものは全然つまらない。人生だってそうだろう?いつも流動的で、何が起こるかわからない。だから面白いんだ

盗作は情けない

人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ

熱帯の夜の静寂の中で、私が私の心からの囁きと柔軟な音楽を聞くことができます

芸術作品は、部屋を飾るためにあるのではない。敵との闘争における武器なのだ

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように

傑作なのか屑なのかわからない

人間の運命は人間の手中にある

少なくとも自然は、生命を更新するためにのみ死を役立てます

モネは、ひとえに眼にほかならない。しかし、何という眼だろう

芸術は悲しみと苦しみから生まれる

悪魔は悪しか行なうことができないゆえに純粋である

人に善をなせば、とがめられるものだ

私にとってはテレビは想像できるものしか映らない画面の一種でしかない

我々は脳をブン投げて、ただ目だけで見ることができればいいのだが

絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ

できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である

悪趣味とはクリエイティブなもので、生物学を知識で操るようなもの

今回この写真文庫(岩波写真文庫)を一冊ずつ選んで、いまの世から眺めていきながら、時代の空気というものをつくづく感じた。活字、つまり言葉では説明しきれないことが、写真からはぷんぷん匂ってくる。このシリーズは、戦後の空気の貴重な貯蔵庫だ。いまの肥満ぎみの世の中は、じつはこの空気を吸うことからはじまっている。良くも悪くも、この空気がいまの日本人の両親なのだ

私は今、生きようと努めている。というよりも、どのように生きるかを、私の中の死に教えようとしている

詩人は未来を回想する

アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う

絵画は家を飾るためにあるのではなく、敵と対峙するための攻撃的かつ防御的な戦争のツールなんだ

だいたい世の中にある「もの」って用件のあるものですよね。でも、単に「もの」を道具としてみるのではなくて、ものの見方の楽しさを感じて欲しいと思います。こういうのってフィールドワークなんです

ゆっくり急げ。美よりも速く走れ

他人を模写するのは必要なことである。しかし、自分を模写するのは哀れなものだ

トマソンには作者というものがいないんです。そこがむしろ面白くて、だから「偶然」とか「出会い」ってことが一番不思議なことに思えてくる

すべてはむなしい

自分には過去も未来もない。ただ現在に生きようが為に絵を描くのである

私が生きているのは国王のため、スペインのため、カタロニアのためだ。天才は決して死なない。人類の進化は我々の手中にある。国王、万歳!スペイン、万歳!カタロニア万歳!

神々と肩を並べるには、たった一つのやり方しかない。神々と同じように残酷になることだ

癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた

何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くもののことである

いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ

私が死んだら、まるで船が遭難するようなものだな。大きな船が沈むと、その近くにいる人はみな、渦に巻き込まれてしまうんだ

運命は、むしろ降ってきたものを遊んだ方がいいのだろう。自分で選ぶとなれば運命として遊べないが、上から下りてくる運命は、むしろそれ自体を遊べる。自決できる世界は考えたら自分の範囲の狭いものだが、突然やってくる他からの運命の世界は自分よりも広い。どうも運命を遊ぶ気持ちが、他力思想の自在さに繋がっていくような気がする

素朴に、無邪気に、幼児のような眼をみはらなければ、世界はふくらまない

私の誕生の日から、死がその歩みを始めている。急ぐこともなく、死は私に向かって歩いている

でたらめをやってごらん。口先では簡単にでたらめなら、と言うけれども、いざでたらめをやろうとすると、それができない

僕はいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける

芸術において不道徳は存在しない。芸術はつねに神聖である

危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ

いかなる創造的活動も、はじめは破壊的活動だ

私は仕事をしているとくつろげる。何もしていなかったり、訪問客の相手をしていたりすると疲れる

むしろ「成功は失敗のもと」と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言いあてている

術は日々の生活の埃(ほこり)を、魂から洗い流してくれる

秘訣というものはない。ただ正しさの法則があるばかりだ

自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手の中に自分自身を発見する。それが運命的な出会いというものだ

子どものころから、四角形に対する漠然とした疑問はありましたね

覚めていて夢みることは、眠っていて夢みることとほとんど同じである

芸術家にとって、自然の中に醜いものなど決して存在しない

確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動しなさい。そうすれば次第に本物の確信が生まれてくる

破壊こそ創造の母だ

芸術は醜いものを生み出すが、しばしばそれは時とともに美しくなる。一方、流行は美しいものを生み出すが、それは常に時とともに醜くなる

嫌われることは愛されることより難しい

人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか

雨が降るのは聞こえるが、雪が降るのは聞こえない。軽い悩みは大声で叫ぶが、大いなる苦悩は沈黙する

親からもらった立派な体、というけど、じつは親からもらっているのは運の方かもしれない。運が脊髄のように芯としてあって、人間の人生というのはその運命の芯の回りにまつわる蛋白質、あるいは脂肪質、悪くいうと贅肉みたいなものなのだろうか

壁は自分自身だ

私には規則や方式は一切ない。裸婦を見る、すると幾千ものちいさな色合いが見えてくる。その中から、生き続けるものを探し出し、そのようにして真新しい色調をキャンバスの上に躍動させるのだ

宇宙には緊急な、致命的な、動かせない法則がある。なければならぬ

運命は人がその糸をもつれさせるのを好まない

人は、若くても年をとっても、絶えず成長したり変化したりしていますよね。固定したものはないんですね。だから、今、面白くないものは、あえて見ることもないなっていう気もします

恋の始まりは瞬間でも、つきあいが長引くかどうかは、美醜よりも人間味にかかわる問題だ

大金を持った貧しい人のように暮らしたい

詩人は常に真実を語る嘘つきである

人間と人間社会の問題なのかもしれない。つまり偶然というのは、本当はこの世の中を無数に満たしている事柄なのかもしれない。世の中はむしろ無限の偶然で成り立っている

私は最初、写真っていうのは、機械が撮るもんだから誰が撮っても一緒。だから絵とは違うなって思っていたんですけど、そうじゃないんですね。写真って、あなどれないなと思いました

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難な方の道を選んできた

デッサンと色彩とは区別することはできぬもので、彩色をほどこすにつれてデッサンがなり、色彩が調和していくにつれてデッサンは正確になる。色彩が豊富になる時、形も充実する

私は、自分の作品に心と魂を込める。そして制作過程では我を失う

全然文明化されていない環境と孤独が、死の間際にいたり、私の内部で、最後の熱情のひらめきを復活させるのです。そしてその熱情こそ、私の想像力を、今いちど燃やし、私の才能を、最後の出口へと導いてくれるものなのです

私はユダヤの偉大な指導者、モーゼのように約束の土地に入れるのでしょうか?わずかに進歩しましたが、なぜこんなに遅々として骨が折れるのでしょう。芸術とは、ほんとうに聖職者のように、それに全身全霊を捧げる純粋な人々を求めるものなのでしょうか?

自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突きあたる

悪貨は良貨を駆逐するという原理と同じで、形式は実質を駆逐する

何も真似したくないと思う者は、何も生み出さない

恋はその始まりがいつも美しすぎる。だから結末が決して良くないのも無理はない

愛をうまく告白しようとか、自分の気持ちを言葉で訴えようなんて、構える必要はない。きみの体全体が愛の告白なのだ

私はドラッグをしない。私自身がドラッグだ

たとえこの人生が負け戦であろうと、いずれにせよ僕は「良い戦い」をしたい

運が続くというのは、じつはどこかで運のウィルスに感染して、症状が広がっている、という状態なのではないだろうか

美はあらゆるところにある。我々の眼がそれを認めえないだけだ

私は大金を持った、貧乏人のように暮らしたい

「絵になる風景」を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい

人生とは自らの道である。一つのことを試みることであり、一つの道を端的に示すことである

低級な芸術家たちは、常に他人の眼鏡をかける

我々は自分の内に天使をかくまっている。我々はこの天使の保護者でなくてはならない

人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ

閃きは自分で呼び込めるものではない。私にできるのは閃きを形にすることだけだ

私は子供のときに自転車に乗ったことのない唯一の男である。描くことにしか興味がなかった
