
芸術家


女が何を考えているのか、すっかりわかれば、男は何千倍も大胆になるだろう

眠い人が眠るように、瀕死の人は死を必要としているのです。抵抗が間違いで無駄だというときが、いずれきますよ

自分の思い通りにしかできないことは、自分の思いだけに閉じ込められるということになる。自分の思い通りが突っ走った結果は、自分が自分の壁の中に閉じ込められて、外気は遮断されて、そのままでは一酸化炭素中毒となってしまう

作家だとか、法律家だとか、政治家だとかをやってる女っていうのは、怪物だと思うね

僕はいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける

全生命が瞬間に開ききること。それが爆発だ

彫刻は、凹凸の術である

スタイルとは、複雑なことを表現するための簡単な方法だ

与えようとばかりして、貰おうとしなかった。なんと愚かな、間違った、誇張された、高慢な、短気な恋愛ではなかったか。ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては

芸術というものは自然の研究に過ぎません。自然です。何もかもそこにあります

破壊こそ創造の母だ

最近はお金持は多いけど、上品なお金持はなかなかいない。だいたいは下品だ

ダサいんですね。言葉を入れすぎると説明になっちゃって、言葉も写真もつまらないものになってしまうんです

詩人は賞賛など求めてはいない。信じてもらいたいだけだ

家の仕事をしている女性は、この世でもっとも美しい

評価されるなんて一切必要なし!音が好きならば、音になっていないといわれようと「音」を出す。これが前提だな

時間は私たちに残された数少ない大切なものだ

明日に引き伸ばせば、それは死んでしまう

人間はコンピュータとは違って揺れ動いてますよね。だから、すべてのものを何かの思い入れを持って見ているんですね。なので、その時々によって違って見えてくることがあるんでしょうね

老年は騒音から遠ざかる。沈黙と忘却に仕える

自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることが出来ない

手慣れたものには飛躍がない。常に猛烈なシロウトとして、危険をおかし、直感に賭けてこそ、ひらめきが生まれるのだ

美術館はちょっとまとまり過ぎてる感じで、博物館的な世界には思わぬものがあるんだよね

鉛筆や紙と同等の費用で映画が創れたときにのみ、映画は芸術作品となるだろう

線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない

私が生まれるということは不条理である。私が死ぬということも不条理である

癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた

リンゴひとつでパリを征服する

自分の中にどうしても譲れないものがある。それを守ろうとするから弱くなる。そんなもの、ぶち壊してしまえ!

素朴に、無邪気に、幼児のような眼をみはらなければ、世界はふくらまない

愛をうまく告白しようとか、自分の気持ちを言葉で訴えようなんて、構える必要はない。きみの体全体が愛の告白なのだ

路上観察の場合はある種の説明で、見る人の手助けになるようにと思って書いています。でも、作品としての写真となると、見る人がその作品の中にどうやって入っていけば良いかわからない…入り口のない場合が多いんですね

著者の死後、彼の日記を読むことは、彼からの長い手紙を受け取るようなものだ

女には、生まれつき筋をつらぬく面がある。男よりずっとしっかりしているよ

誰のために創るんだろう。考えたことあるか。自分のために?そんなの甘っちょろいよ。植木づくりでもやるんならそれでいいんだ。金のために?だったら創るより早いやり方がいくらでもあるだろう

芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか

過去とは、所有者の贅沢だ。過去を整頓しておくには一軒の家を持つことが必要だ。私は自分の体しか持たない

他人に興味を持ってもらいたければ挑発しなければならない

カメラっていうのは難しいんですね。湿気が一番良くないんだけど、乾燥しすぎても良くないらしい。湿度調整する装置がありますけど、あれで安心しても良くないらしいとか。やっぱり、使っているのが一番良くて、しまい込むのが一番良くないんですね。人間と同じなんですね。人間だって引きこもってばかりじゃよくないしね

いや、40年と30秒だよ

現代人の欠点は自分の職業に愛と誇りを持っていないことである。多くの人が職業を必要悪の労役苦役と考えている

自然に生き、自分の気持ちをほんとうに伸ばしてゆこうとすれば、まず、いたるところで残酷に、壁に突きあたる

トマソンには作者というものがいないんです。そこがむしろ面白くて、だから「偶然」とか「出会い」ってことが一番不思議なことに思えてくる

恋愛だって芸術だって、おなじだ。一体なんだ。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがある

大胆のコツは、度が過ぎない程度にどこまで遠くへ行けるかを知ることである

(印象派について)彼らはもっぱらその装飾の結果のために、真実を妨害するように、自由なしで、色を使っています。彼らは目だけで物を見て、神秘的な思念を基にしていません。彼らは単に明日の公式画家です

アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う

究極の善、究極の悪、究極の価値がなければ、人間のある活動が別の活動よりも本質的に優っていることなどあり得ない。だから、全ての行為が同じ価値しか持っていないということを認めざるを得ない。とするなら、一つの行為を別の行為よりも優先させるのは、我々が自分で独自の選択を行っているからある

熱帯の夜の静寂の中で、私が私の心からの囁きと柔軟な音楽を聞くことができます

私は捜し求めない。見出すのだ

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ

自分の好きな音を勝手に出す、出したい音を出したらいい

見るために、私は目を閉じる

芸術家というものは、自分に才能があると思うとだめになってしまう。つけあがらず、職人みたいに仕事をしてこそ、はじめて救われる

人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ

釣りをやる人には、釣れそうなところがわかるそうなんですね。私たちの路上観察も同じような感じで、ありそうなところっていうのが、何となく雰囲気でわかるんですね。あまりピカピカの出来たての街だと、他の要素が入り込む要素がないので、妙なものを発見することが少ないんです。だいぶ時間がたって、壊れたり色々用途が変更になったり、何だかんだと生活にもまれたところで、見る人が見れば妙なものになる。そういうところがすごく面白いところなんですね

人は生涯、同一水準の作品しか書けない

むしろ「成功は失敗のもと」と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言いあてている

愛することは、愛されること

芸術家を何とお思いか。画家なら目、音楽家なら耳、詩人であれば心に抒情、ボクサーなら筋肉のほかに何も持たない愚か者とでもお思いか。それはとんでもない勘違い。芸術家はそれだけでなく、政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象に沿って自らを形作っている

恋する女であれ。そうすれば幸せになれる。神秘的な女であれ。そうすれば幸せになれる

美しさの極致は一人の女にだけあるのではない。すべての女にある。彼女たちはそれを知らないが、皆がこの美に到達するのだ。ちょうど果実が熟するように

大事は寄せ集められた小事によってなされる

私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ

自然は常に完全である。決してまちがわない。まちがいは我々の立脚点、視点の方にある

ただこの世の中に生まれてきたから、惰性で生きてるなんて、そんなやつは、生きてる必要ない

1.必ずできると信じろ2.限界を越えろ3.「その時」を待つな4.行動しろ5.正しく問え6.ジャッジせず、隠された美を見ろ7.遅すぎることなんてない

芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ

間違いは神聖なもの、それを正すというよりは合理的に考え、誤りを理解せよ。そうすれば間違いを昇華することが可能になる

恋の始まりは瞬間でも、つきあいが長引くかどうかは、美醜よりも人間味にかかわる問題だ

創造性の最大の敵は良きセンスだ

詩人にとって最大の悲劇は、誤解によって賞嘆されることだ

同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ

人間は毅然として、現実の運命に耐えていくべきだ

私は、愛したいと思いながら、それができない。私は、愛すまいと思いながら、それができない

危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ

愛は永久不滅なもの。姿かたちを変えることはあるが、本質は決して変わらない

普通、表現の仕事であれば作者というものがいますよね。しかし、トマソンには作者というものがいないんです。そこがむしろ面白くて、だから「偶然」とか「出会い」ってことが一番不思議なことに思えてくるんですよね

もし婦人の乳ぶさと尻がなかったら、私は絵を描かなかったかもしれない

人の本当の仕事は30歳になってから始まる

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる

私たちは気が付かないものが道端に隠れているという感覚にわくわくしちゃって、それを写真で記録することになるんですが…。トマソンが一番わかりやすい例です

人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ

抽象画なんてものは無い。とりあえず描き始めて、それから現実の痕跡の全てを排除していくのだ

ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる

みんな神話が好きだ。だから私の絵を愛するのだ

例えを言って、それが即、通じるというのは、お互いに共通するものをもっているということ

猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めていく以外にない

毎朝起きるたびに、私は最高の喜びを感じる。「サルバドール・ダリである」という喜びを

これを描いたのはあなたですか?いや、違う。きみたちだ

本物の画家というのは何もない砂漠で異常なシーンを描ける人だ

私にとっては、この外気の中での美しい研究がありがたい。私の部屋は私を苦しめる。小さすぎ手足を痛める靴のようだ。そして都会・・ 美しい都会、幾度も言わねばならないが、私が自分を知る一切のものを学び得たのは野原や森の外気の中でのことである

親からもらった立派な体、というけど、じつは親からもらっているのは運の方かもしれない。運が脊髄のように芯としてあって、人間の人生というのはその運命の芯の回りにまつわる蛋白質、あるいは脂肪質、悪くいうと贅肉みたいなものなのだろうか

コンピューターなんて役に立たない。だって、答を出すだけなんだから

真の芸術家とは、喜びのために仕事をする唯一といってよい人達だ

なにが芸術家かって?それを知ってたら、注意深く、ばらさないようにしておくよ

人間は、毎日生まれ変わる

運命は、むしろ降ってきたものを遊んだ方がいいのだろう。自分で選ぶとなれば運命として遊べないが、上から下りてくる運命は、むしろそれ自体を遊べる。自決できる世界は考えたら自分の範囲の狭いものだが、突然やってくる他からの運命の世界は自分よりも広い。どうも運命を遊ぶ気持ちが、他力思想の自在さに繋がっていくような気がする
