
芸術家


美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ

ものがそこにあるという尊厳。これはいったいなんだろう。ただあるというだけなのに

わたしは立ち止まりはしない

自分を実際そうである以上に見たがったり、また見せようとしたり、あるいは逆に、実力以下に感じて卑屈になってみたり、また自己防衛本能から安全なカラの中にはいって身を守るために、わざと自分を低く見せようとすること、そこから堕落していくんだよ

イエスとノーのあいだに真実が息づいている

芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか

人の本当の仕事は30歳になってから始まる

過去とは、所有者の贅沢だ。過去を整頓しておくには一軒の家を持つことが必要だ。私は自分の体しか持たない

盗作は情けない

大金を持った貧しい人のように暮らしたい

普通、表現の仕事であれば作者というものがいますよね。しかし、トマソンには作者というものがいないんです。そこがむしろ面白くて、だから「偶然」とか「出会い」ってことが一番不思議なことに思えてくるんですよね

私は最初、写真っていうのは、機械が撮るもんだから誰が撮っても一緒。だから絵とは違うなって思っていたんですけど、そうじゃないんですね。写真って、あなどれないなと思いました

ミスというのはほとんどいつも神聖な特徴があって、決して修正しようとなんてしてはいけない

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ

見るために、私は目を閉じる

自然は至上の建築物である。自然の一切は最も美しい釣り合いをもって建てられている

アバウトは健康にいい

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる

僕はいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける

詩人にとって最大の悲劇は、誤解によって賞嘆されることだ

誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか

私が死んだら、まるで船が遭難するようなものだな。大きな船が沈むと、その近くにいる人はみな、渦に巻き込まれてしまうんだ

運が続くというのは、じつはどこかで運のウィルスに感染して、症状が広がっている、という状態なのではないだろうか

絵画は家を飾るためにあるのではなく、敵と対峙するための攻撃的かつ防御的な戦争のツールなんだ

自由であるとは、自由であるべく呪われていることである

自分には過去も未来もない。ただ現在に生きようが為に絵を描くのである

想像できることは、すべて現実なのだ

我々はどこから来たのか?我々は何者なのか?我々はどこへ行くのか?

私は、愛したいと思いながら、それができない。私は、愛すまいと思いながら、それができない

閃きは自分で呼び込めるものではない。私にできるのは閃きを形にすることだけだ

ゴッホは美しい。しかしきれいではない。ピカソは美しい。しかし、決してキレイではない

スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する

悪魔は悪しか行なうことができないゆえに純粋である

確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動しなさい。そうすれば次第に本物の確信が生まれてくる

明日描く絵が、一番すばらしい

とりあえず放送した方がいいというので、日本の世の中には形式だけのアナウンスがわんさと流れている。日本人は形式が好きだ、と思われても仕方のないことだ

情欲に流されるのはいい。だけど、流されているという自覚を持つんだ

芸術家は自然の親友である。草花は茎の優美な曲線と花びらの調和のとれた色合いで芸術と対話をする。どの花にも、自然が芸術家に心から語りかける言葉があるのだ

美はあらゆるところにある。我々の眼がそれを認めえないだけだ

今回この写真文庫(岩波写真文庫)を一冊ずつ選んで、いまの世から眺めていきながら、時代の空気というものをつくづく感じた。活字、つまり言葉では説明しきれないことが、写真からはぷんぷん匂ってくる。このシリーズは、戦後の空気の貴重な貯蔵庫だ。いまの肥満ぎみの世の中は、じつはこの空気を吸うことからはじまっている。良くも悪くも、この空気がいまの日本人の両親なのだ

我々は脳をブン投げて、ただ目だけで見ることができればいいのだが

電子辞書は確かに早く正確に引けるが遊びがない。紙の辞書は、引いた語句の両脇の語句が視界に入る。この種のノイズが文化を生む

熱帯の夜の静寂の中で、私が私の心からの囁きと柔軟な音楽を聞くことができます

デッサンと色彩とは区別することはできぬもので、彩色をほどこすにつれてデッサンがなり、色彩が調和していくにつれてデッサンは正確になる。色彩が豊富になる時、形も充実する

我々は何をするにも、常に自分自身に問わなければならない。もし皆がそうしたら、どんなことになるだろうと
