感動っていうものに限界は無いじゃないですか、日々。それに突き動かされるんですよ
そもそも不用のものや、そこに転がっているものに「妙なもの」があるんです。これは「妙なもの」としか言いようがないんですけど、それは、まだ誰も見ていないということもあって、それを発見するのが面白かったんですね
あのアナウンス(「ファウルボールにはご注意下さい」)であらためて注意する間抜けはいない。でもあのようにいっておかないと、後で怪我して訴えられたら困るというのがある。アメリカ仕込みの訴訟社会の風習である
楽しいことは、みんないい事だとは思わないか?つまらないことは、罪悪だとは思わないか?
優れた者ほど間違いは多い。それだけ新しいことを試みるからである
自然にやってく中でぼんやり何となく楽しいっていうのは、凄く大事なこと
人は素敵な経験があるかないかで、心の汚れとか全然変わってくる
理論というものは現実に従って変化していく
僕らは、今存在している人達は皆、存在する事を選んだ人達だと思います。
大胆のコツは、度が過ぎない程度にどこまで遠くへ行けるかを知ることである
オーケストラ音楽に触れたきっかけはラジオ
それしかないんだから。腹をくくって、あきらめて。そこに行き着くまでにいっぱい考えればいいと思うし、失敗もすればいいと思うんだよ。
When you’re drowning, you don’t say ‘I would be incredibly pleased if someone would have the foresight to notice me drowning and come and help me,’ you just scream.
溺れている時は「誰か、溺れているのに気づいて助けてくれることを考えてくれたら嬉しいです」とは言わず、ただ叫ぶだけだよ。
悪魔は悪しか行なうことができないゆえに純粋である
選択肢とか自由な表現が辛いのは、自分という位置の束縛が出てくるからである。自由による束縛といってもいい。いまの子供たちは、自由な表現というものを強要されて、ずいぶん辛い思いをしているのではないか。表現したいことなんて特になくても、とにかく自由にして見せないといけない。それよりもむしろ固苦しい習いごとを押しつけられて、そのことに抵抗を感じている方がよほどネイティブの自由がふくらんでくる
若い時から優れた作品に触れることが重要
映画を観てる時もご飯食べてる時も漫画読んでる時も友達と喋ってる時も、なんにもしていない時なんて特に、いつもいつも音楽のことを考えてる
これからは自分の為に歌おうと思います。 俺が俺であることを好きでいるとその日はすげぇー楽しいのね。でも俺が俺であることが嫌になってしまうと、その日1日もぅ何もかもが駄目なわけ。俺はかっこよく生きたいです
どうせやり切るなら極限までやっちゃえ!
みんな何かしら人知れず苦労しているものだ。だから自分から進んで苦労する必要はない
絵画というのは手で作った写真だ
数千のアイデアを育てて、やっと一つの成果を得ることが出来る
学ぶことは何もないの。楽しむだけでいいんだ
後回しにできないあせりみたいなものが非常にあって。ボヤボヤしてられないんだよ、休んでる場合じゃないんだよ
正しくない事を言ったりしてるやつが居たら自分ひとりでもちゃんと「それは違う」って言えよ。そしたら俺みたいに嫌われたりもするだろうけど、最後は正直者が笑うんだからさ
挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない
目立たないように目立たないように、さりげなくさりげなく自分の存在を消し続けた(高校)三年間
勘違いするな。俺とお前は違う。 お前の極道は死に様。俺の極道は――生き様だ。 同じ道でも、死に向かって戦うのと、生きるために戦うのは違うということだ。いずれ分かる。
言葉なんていらなくなるよ、きっと。僕が立派になれれば。
私は死ぬまで死ぬことについて、そして生きる事について考えていると思う
運が続くというのは、じつはどこかで運のウィルスに感染して、症状が広がっている、という状態なのではないだろうか
人生の目的は悟ることではありません。生きるんです
何したっていいんだよ。自分で責任取れればいい。責任を取るっつうのは、この道で満足してるなって思えること。
大多数の世間の人々が、平凡な一生を終るのは志が小さく、意志が弱いからだ
画家がどれだけ素晴らしいパレットを持っていても意味がない。大事なのは、どんな眼を持っているかなんだ
Imagine all the people living life in peace.
想像してごらん。だれもが平和に生きていることを。