芸術は悲しみと苦しみから生まれる
宇宙には緊急な、致命的な、動かせない法則がある。なければならぬ
『何をやるか』じゃなくて、『どんなふうにやるか』
期待なしに恋をするものだけが、真の恋を知る
お前らの人生がライブハウスみたいだったらいいなぁ。おされたり、ぶつかり合ったり、倒れちゃったりして、でも自分の力で立ち上がったり、時には周りの人に助けられたりしながら起き上がって、次の瞬間にはものっすごい笑顔で前を向いてる。お前らの人生がそんなだったらいいなぁ
自分を好きになれない奴が、どうあがいたって好きになってはもらえないだろうな、きっと。
芸術家を何とお思いか。画家なら目、音楽家なら耳、詩人であれば心に抒情、ボクサーなら筋肉のほかに何も持たない愚か者とでもお思いか。それはとんでもない勘違い。芸術家はそれだけでなく、政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象に沿って自らを形作っている
女が愛し、愛されると彼女は変わる。誰も彼女にかまわなくなると、精神が乱れてその魅力が失われる
アァン?…お前、ベッピンさんやないかい。どや、俺の女にならんかぁ?どやねん? えぇ〜?
みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね
大事は寄せ集められた小事によってなされる
俺には嫌いなタイプの人間が2種類おってなぁ。1つは、人が苦労して取ったぬいぐるみちゃんたちをバラすようなアホンダラ……もう1つは、立場の弱い女子供を食い物にするようなクソッタレ……どっちもお前らのことじゃボケェ!
全部欲しいって言ってたら、本当に欲しいものが薄くなっちゃうよ
大切なことは、熱狂的状況をつくり出すことだ
誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか
芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか
「ロックな手と書いて岩手と読むんだぜ。」「あのさー、冷麺てなにでできてんの?原材料はなんなの?」(岩手ライブにて)
死を忌まわしいものと考えて、遠ざけたがる。死の匂いのするものを隔離して暮らしていく。そうやって管理するのは便利だろうし、すごく現代的だと思うけど、私はちっともいいと思っていなくて。
文明とは、麻痺状態のことだ
僕はいつも自分が純粋に感じたこと、考えたことを、理解されようがされまいがダイレクトにぶつける
真夜中の空を僕は今ひさしぶりに見ている
聴いてる音楽とやってる音楽がつながらなくても、それはどうでもいいんです。
若くなるには時間がかかる
真理に年齢はない
金 金 言うてもヤクザは最後は力や。力失うた人間は 力ある人間にその道 譲らなアカン。冴島 お前は東城会の力や。絶対に強いまま 神室町に戻って来るんやで。
RADWIMPSが好きだから聴いてんだよって言ってくれる人達の気持ちに恥じないように、うちらはこれからも世界で一番かっこいい音楽を作ってくから、もしよかったらこれからも聴いてください。
今まであんなにときめいてきて、あんなに翻弄されて、電話のなかに彼がいると思って電話をずっと見てた、ああいう時間は何だったんだというぐらい、まったく次元の違う大事なものができてしまう瞬間があるんですよね
明日のための今日ではなく、今日のための今日ですよ
生まれたら最後死ぬ訳じゃないですか。それはもう生き物として当たり前の事で。
昔、『天空の城ラピュタ』を観て、自分の目の前には守るべき少女も追いかけるべき宝もないことに絶望した
口先だけじゃ海を越えられないのさ
「病気になったのは罰なんだ」「人の言うことを聞かないからこういうことになるんだ」と、自分を責める気持ちから曲が生まれた。ネガティブな気持ちを書いている。
トマソンには作者というものがいないんです。そこがむしろ面白くて、だから「偶然」とか「出会い」ってことが一番不思議なことに思えてくる
今度会うときも、今持ってるもの失わないでほしい。今のまんまで
清志郎。あなたとの思い出に、ろくなものはございません。今日もそうだよ・・・。ひどいよ、この冗談は。ありがとう。一生忘れないよ。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる
僕は自慢ができることが1つあるの。それは自分の中学生時代に、リアルにパンクを体験したってこと。
音楽でも童謡とか、誰が作ったかもわからないものが残っているのは、すごく素敵やなと思うんです
なにが芸術家かって?それを知ってたら、注意深く、ばらさないようにしておくよ
We were a savage little lot, Liverpool kids, not pacifist or vegetarian or anything. But I feel I’ve gone beyond that, and that it was immature to be so prejudiced and believe in all the stereotypes.
俺たちは、リバプールの子供たちで、非暴力主義者でも菜食主義者でも何でもなかった。しかし、俺はそれを超えてきたと感じていて、偏見を持ち、全てのステレオタイプを信じることは未熟だったと思う。