(どうしてすぎやまこういちと平仮名なの?)漢字では椙山浩一と書くのですが、間違えて「まさやま」と読む人がいたり、「杉山」と書く人がいるので
例え、一流よりもいい音が出せたとしてもまだニ流なのです。大事なのは、その音を出し続けることができるかということ
侮辱に悪影響を受けるのは、侮辱に感染しているのだ
俺らがなんでロックやってっかというと、ロックはさ、汚ねぇ言葉とかすっげぇ使ってるよ。それが受け入れれない奴は、まだロックなんて必要ねぇんだよ。でも、絶対なんか壁にぶちあたった時、ロックを聞くとさ、こんな汚ねぇこと考えてるの俺だけじゃねぇんだって思えるからさ。だから、俺らはおまえらのためだけにロックをやるよ
孤独であって、充実している、そういうのが人間だ
自分が感動できるものを提出していかないと、周りの人、ひいては観客に響いていかない
自分があまりにも日本語を知らな過ぎることがコンプレックスでした
大小様々な仮想敵を作って「XXXXよりこっちが良い!」みたいに比較するのではなくて、「楽しい!」とか「ヤベー!」とか、言葉にできない魅力とか、そういうことをシェアしたいなって思う。
私たちは気が付かないものが道端に隠れているという感覚にわくわくしちゃって、それを写真で記録することになるんですが…。トマソンが一番わかりやすい例です
熱帯の夜の静寂の中で、私が私の心からの囁きと柔軟な音楽を聞くことができます
苦労して獲得した金メダルをおじさんに齧られるのって、自分ごととして想像し直すとあれかな、メインのレスポールSPのヘッドを齧られるみたいな感じかな…。正気でいられる自信ないな、俺。
国際級のすごいソリストを入れても、中に一人下手な人間がいるとアンサンブルとしての実力は、そのレベルに下がってしまう
手段ではなくて目的
フッ…… まったく不謹慎やのお〜……お前ら、最高やで!
極端な話だけど、希望と絶望が同時に存在するのがいい日々だと思うんです。
凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が「見」ないで眺めるからです
同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ
顔に性格が表れるように、声には人生が現れる。言葉でどうこうするより、何万時間語り合うより、一曲でいいから自分の書いた歌を聴いてもらえば分かりあえる気がしちゃうんだよな
出会えた喜びはいつも一瞬なのにどうして別れの悲しみは永遠なの
感動の出発点は感動にあると思うんだ。なんで感動したのかを辿っていくと、表現されたものがどう作られていて、「だから俺は感動したのか」って分かる。もっともっと辿っていくと、その表現者が、かつて感動した瞬間に帰結すると思うんだよ。それが色んな何かをぐるぐると通過して、また人に届く。錬金術なんかじゃないんだよ。感動が伝わって、感動を生む。
Everything will be okay in the end. If it’s not okay, it’s not the end.
最後には全て上手くいくよ。もし上手くいっていないのなら、それは最後じゃないってことだ。