何事かを成し遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。できないことによって何かを行うことなど、到底できない
いい歌をつくって、なんでも話せる友達がバンドメンバーで、気持ちをこめて歌って、聴いてくれる人をアッ!と言わせたい。それだけでいい
会計学者や経営者は「純利益」という言葉を使うが、企業経営ではそんな言葉を使ってはいけない。「フューチャー・コスト(未来費用)」と呼ぶべきだ。企業というのは、リスクを負うために失敗することもある、そのときのために未来のコストを留保してあるのであって、利益の蓄積ではないのだ
ロック・ミュージシャンになりたいなんて言ったら、親も教師も友達も、みんながみんな反対してくれたもんだった。もうそれだけで社会の落伍者みたいなもんだから。でも、それはとても幸福なことだったと、今は思える。
女性は行動するより前にこうしよう、と考えることがあまりない生き物なんじゃないかと思うんです。先に手が出るというか、体で感じて体で動くっていう
結局芸術の唯一の原則は、見るものを模写することだ
客の二酸化炭素は俺らの酸素なんだ
落ち込むのと失望は違うんよ。 だって、落ち込んでても夢や愛は信じとるもん。
生涯、創造者でありたい
気がつけば少しずつ転んでいくのは人生の常
俺は強いヤツが好きや!俺に命令出来んのは強いヤツだけや!
何が正しいかなんてわからんでしょ。俺が死んでも答えは出んよ。 そんなら好きだと思う事やるしかないんじゃないかなあ。
私が生きているのは国王のため、スペインのため、カタロニアのためだ。天才は決して死なない。人類の進化は我々の手中にある。国王、万歳!スペイン、万歳!カタロニア万歳!
世の中に言いきれることってねえが。 でも恋愛は絶対素晴らしいと言いきるよ
芸術は何かっていうと、抑制だよね
癒しという言葉が丸薬みたいに使われるようになった最初は、大江健三郎のノーベル文学賞だと思う。あのストックホルムでの授賞式の講演の中で、癒すとか癒されるとかいう副次的な意味で使われていた言葉が『癒し』として、名詞みたいに、テーマに坐る言葉として使われていた
今熱烈に恋してなくたって、すげぇ好きだった人いたことのない人はいねぇと思うんだ。だから何が言いたいのかっていうと…。あんたがたは好きな人のために歌ってください。俺は今日、あんたがたのために歌う
自分にいろんな矛盾があることが当然
死に方は生き方、生き方は死に方。
会いたいって言った方が負けみたいなとこある気がする。男女
凄くふさわしいところに自分が立ってて、凄くふさわしい行動を取っているような気がするんだよ
過去のバンドの名前や音楽を具体的に挙げて、こういうふうにしようと話し合ったことはない。やりたいときに、やりたいことを、やりたいようにやる。そんな自由さを失わずにいこう、みたいなことは話したけど。
自分の声に何かがあって、歌えなくなったとしても、作詞は続ける。
できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である
When we do the best that we can, we never know what miracle is wrought in our life, or in the life of another.
ベストを尽くしてみると、あなたの人生にも他人の人生にも思いがけない奇跡が起こるかもしれません。
インディーズの頃は、有名になって注目されたいとか、めっちゃ広い家に住みたいということが活力になってて
自分の夢に必要やと思えるもの、好きやと思えるものには一生懸命になったらいい。
俺らはハリウッドスターほど会えない人達ではない。現に俺らは曲で君達のそばにいるから
俺かて そない馬鹿正直に生きてきたわけやない。せやけどな、俺のまわりには馬鹿に生きて……馬鹿に死んでった男たちがおった。そいつらのくだらん生き方が 俺は男の最高の生き様やと気がついたんや
鉛筆や紙と同等の費用で映画が創れたときにのみ、映画は芸術作品となるだろう
完璧を恐れるな。完璧になんてなれっこないんだから
だって朝から晩までいろんな音楽聴いてるわけで。バップのジャズや20年代のブルースからソウル、レゲエ、フォーク、アイリッシュ。クラシックはめったに聴かないけど聴くときもある。そのすべてから影響受けるけど、僕はそういうのを聴く人で、その僕がやってるバンドがこれだっていうだけ。
やりたい事やったもん勝ちなので全部やりたい
(今の社会、政治についてどう思うか問われて)僕がちょっと油断してたから悪くなりました。どうもすみません。
いまさら、自分を変えようとしてはならない。そんなのは、うまくいくわけがない
I do not want the peace which passeth understanding, I want the understanding which bringeth peace.
私は理解を超えた平穏を求めているのではありません。むしろ、平穏をもたらす理解を求めています。